アニメ「有頂天家族」をもっと楽しむために(その1)

 

 7/7の七夕の日、アニメ「有頂天家族」の放送が始まりました。

 森見登美彦氏の同名の原作(幻冬舎刊)を、最近では「TARI TARI」や「レッド・データ・ガール」を手がけたP.A.WORKSがアニメ化。キャラクター原案には「さよなら絶望先生」の久米田康治先生が起用されていて、この異色の取り合わせともいえる三者のクロスオーバーっぷりが話題になっていたり。

 

 原作ファンである私も、わくわくどきどきしながら放送を待っておりました(はい、前回の記事の氷菓につづき、またもや原作厨の私です)。第1話を早速テレビにかじりつき、さっき見終えたところの余韻さめやらぬ間にこの記事を書き始めているところです。

 

 いやー、なんというか、文句なしで面白かったです。モリミーワールドの「京都」でした。すなわち、空を天狗が飛び、地を狸が走り、弁天様が美しい。

 まだ出てきていませんが、うごうごと人間たちが生活しているその裏で、うごうごと毛玉たちが走り回るのは、きっとかわいいにちがいない!地に足のつかない空想を思い描いて空に浮かぶ樋口師匠(は出ません)もあそこにいるんだ!。黒髪の乙女も先斗町をロボット歩きしている(かもしれない!!)。(太陽の塔や夜は短し歩けよ乙女などでもおなじみの)偽叡山電車が走り回る!・・・ああ、楽しみ!

 という感じで私の気持ちはえいえいと盛り上がっておりました。もりもりもりもりもーりまくりー。テンションがおかしいですね。

 

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 さて、本題。

 

 アニメ「有頂天家族」第1話は、原作小説の1章のエピソード全体をまるまる盛りだくさんにまとめ上げていました。なので、物語の導入としては、原作1章と同じく、私と赤玉先生と弁天様の関係をうまく描きつつ、人のあいだに狸と天狗が混じっている不思議な世界観を見せることに成功していたと思います。

 ただ、小説の魅力でもある文体や、細かい部分での描写や過去を絡めて関係を深く掘り下げた「影」(因縁?)のような部分は、まだ明細までは現れてきていないようにも見えました。もちろん、きっとこれから1クール通してお話を描いていくのだとは思いますが、1話目だけを見ると、原作未読のかたがたは「雰囲気はよかったけど、いったいあれはどういうことだったの?」という部分も、ところどころに出てきているのではないでしょうか。

 というわけで自分解釈ではありますが、原作小説の記述のおさらいも含めて、ココに、色々と書いていってみようかと思っています。

 とりあえず今回のところは、第1回に出てきた主要キャラクター3人の関係についてです。

 

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「3人の関係(愛と憎)について」

  • 赤玉先生は「天狗」です。
    今は凋落し引退して四畳半に暮らしていますが、かつては偉大な天狗でした。有無を言わせない威厳があり、威張って当たり前、魔道を行く、それが天狗。天狗の鼻を伸ばすし天狗風をふかすし、天狗笑いをとどろかせていました。今は見る影も無いのですけどね。
     
  • "私"こと矢三郎は、下鴨家の習わしで、赤玉先生に弟子入りしています。
    偉大な父である下鴨総一郎と違って、出来の悪い弟子で、人間を真似ようとしたり天狗のようになろうとしていて、叱られてばかりでした。そして、弟子として極めつけの事件を起こしてしまいます。 
     
  • 赤玉先生の凋落の原因を作ったのが、私(下鴨矢三郎)と弁天です。
    弁天の発案で、狸らしく天狗の赤玉先生を化かしたのです(これを魔王杉事件といいます)。その結果、先生は体を壊してしまいました。矢三郎はこのことをずっと気にして、自分で自分を破門します。
    弁天に振られて、いたたまれなくなったことも理由のひとつです。しかし、落ちぶれた後の赤玉先生をみるに見かねて自主復門し、先生の世話を焼くようになりました。
     
  • 天狗なのに狸の世話をうけないといけない身上になってしまったことを赤玉先生は嘆いているでしょうか?ありがたがっているでしょうか?かつての弟子たちは皆離れていってしまったのに、世話を焼くのために訪ねてくれる弟子を嬉しくおもっているでしょうか?
    きっと思っているはずです。でも、たとえ、そう心の内で思っていたりしても、天狗はそういうことを表にだしたりはしないのです。
    だって天狗だから。
    威厳を振りかざし、人間や狸風情を空の高みから見下しているのが天狗だから。
      
  • そして、矢三郎も負い目を感じているのだけれど、それを表には出しません。狸が化かすのは本分だから。天狗の矜持が高いのを知っているから。

先生は私が恋文を盗み読んだことを先刻ご承知であり、私は先生がそのことを先刻ご承知であることを先刻ご承知である。今宵に限ったことでなく、これまでの長いやり取りの積み重ねを通して、互いの先刻ご承知が入り乱れている。けれども先生はそれを踏まえて喋ろうとはしないし、私も「ぶっちゃけ」はせぬ。師弟たるもの、迂闊に肝胆相照らすわけにはいかないのである。

  • もう赤玉先生は、何から何まで先刻ご承知らしいです。気づかぬふりをしたり、認めなかったりしているだけっぽいです。狸のやることだから、人間のやることだから!そんな瑣末事は知らん!
     
  • (師弟のいい話っぽい流れではありますが)赤玉先生の天狗らしい過去。
    当時女子学生だった弁天をさらってきたという事があります。ひどい!まさに天狗の所業です。
     
  • お花見の場面は、過去の回想場面。
    弁天は、自身を「まだ普通の人間」といいながらも、天狗から手ほどきされた魔道を開花させて、初めて空を飛ぶ場面です。矢三郎が弁天に初めて出会って、人間でありながら天狗のような能力を発揮してみせた弁天の姿にほれる場面でもありました。
      
  • 金曜倶楽部とは狸に非常に恐れられている集まりです。
    7人の人間が月に一度金曜日にあつまって宴会をするだけの、(メンバーに弁天がいる以外は)普通の飲み会をする集まりです。7人にはそれぞれに七福神の名前がつけられます。弁天が弁天と呼ばれるようになった由来はここにあります。
    1点だけ普通でないことがあって、狸にとっては恐るべきことに、忘年会には持ち回りで狸を捕まえて狸鍋にして食べるという伝統があるのでした。
     
  • 矢三郎や弁天には、狸鍋のことで因縁があり、弁天や金曜倶楽部は矢三郎など下鴨家の仇敵でもあります。
     
  • 弁天は、自身の生き方をどう思っているのでしょうか?
    天狗より天狗らしく振舞って、今の生き方には満足しているようではあります。天狗の手ほどきをした師匠の赤玉先生には恩も感じているかもしれませんが、復讐めいた魔王杉事件をたくらんだのも確かです。先生の凋落後、枷が外れたように天狗らしく頭角を現せるようになったのも、もしかしたらと思ってしまいます。
     
    それらをふまえても、弁天様はやっぱり「人間」なのかもしれません。普通の人間ではなくなった今でも、やはりまだ「だって私は人間だもの」といってみたり。赤玉先生の未練がましい恋文をもらって待ち合わせ場所の南座に足を運んだりして。
    もしかして、心底では天狗のように気まま勝手に成りきれていないのかもしれません。もしかして狸のようにヒトを化かして心底面白く生きることもできず、人間ということに拘泥しているのではないか、そんな複雑な振る舞いをみせる様子もあったりします。
      

こんなところでしょうか。。

 

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 さて、ここまで読んでしまった人は、まあどうも、ありがとうございます。でも、原作小説を読んだほうが断然面白いので、まだ読んだことがないのであれば時間のあるときに原作小説を手にとって見てください。読まなくても、毎週のアニメを楽しみに待ちましょう!

 既読のひとは小説を読み返してみると、あらためて色々発見があるってオモチロイはずです。それもまた、アニメや小説の楽しみ方のひとつ。

 面白きことは良きことなり!

 

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 あとは私のアニメの第1話をみた感想です。

 切なくなります。。そのうちわかる。

 

 これは前述の3人の関係でナントカ説明しようとしてみましたが……どうでしたでしょうか。

 

 難しかったです。

 

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 わずかなりともアニメ、小説を楽しむための一助となりましたら幸いです。

 では。

(その2につづく)